アーチスト紹介

無限の楽しみを形にする芸術

 陶芸は、人間が獲得した最古の芸術である。 
 日本列島で発掘されたものにかぎっても、縄文土器はおよそ紀元前一万六千年まで遡ることができる。縄文人は、狩りで得た獣や魚を食べるために焚き火をすると、地面が堅くかたまることを経験として知っていて、それがのちの縄文土器につながったともいわれている。  
 なるほど由来はそうだとしても、いったいなぜ人は、陶芸という芸術にあきれるほどの時間と情熱を注いできたのだろうか。  
 命をつなぐための食事や睡眠は、本能に基づくむき出しの欲に支配されている。  
 それに対して芸術は、欲の次元を超えた知性と感性に導かれる創造的な行為である。欲は満たされれば鎮まるが、創造は満たされるほど未知の世界を求めてさらに増幅する。  
 土をこね、形をつくり、焼きかためるという素朴な手仕事が、長い時間をかけて芸術に昇華し、広大無辺の歴史を重ねていった理由の一端もそこにあると思う。  
 陶芸家が土にこめるものは力学的な圧だけではない。しつらえられる場所。花や茶や酒の色、香り。眺めや手触りを楽しむ使い手の表情。自分の作品が相対するであろう情景の数々を思い浮かべ、時にほくそ笑みながら陶芸家は作陶にいそしむ。  
 いっぽう使い手にも種々のタイプがある。抹茶茶碗で毎朝コーヒーを平然と飲む男が、実はかなりいるという話を人伝手に聞いたことがある。名もわからぬ不可思議な形の平べったい皿を手に入れたはいいが、試しに刺身をのせて食ってみたものの、あとで硯だったと判明し、家人とともにひとしきり苦笑したと話してくれたのは私の知人だった。  
 作品を間に挟んで作家と使い手が協働し、イマジネーションをフルに駆使する無限の楽しみこそが陶芸の面白さだとするならば、これほど愉快な芸術を人間が手放すはずはない。   井口大輔。栃木県真岡市在住。三十七歳。  
 日本において三十七歳という年齢は、社会人として相応の経験を積んだ者との推定を生む。芸術の世界では違う。井口自身の言葉を借りるならば、「三十代の陶芸家なんて、まだまだ駆け出し」である。  
 そんな若手の作品はどのようなものかと個展案内の写真を一覧した。  
 鈍感な私でも、井口が「その他大勢」に埋もれる作家でないことはすぐにわかった。写真の中にたたずむその作品が、〝おそれ〟とでもいうべき不可視なものを大量に帯びていたからだった。

岩へのシンパシー

 井口の父は、宇都宮で店舗デザインや看板広告などを手がける仕事をしていて、陶芸家の知り合いも多かった。井口も小さい頃、父に連れられて陶芸家の工房をたずねては、粘土をこねたり轆轤をまわしたりして遊んでいた。  
 家のあちこちには父が趣味で買い集めた焼物があった。一輪挿しには、山から採ってきた季節の花が無造作に投げ込まれていた。井口の父は、静かで風流な男だった。  
 「自分は逆。外で遊ぶのに夢中なやんちゃ坊主でした。よく山に入っては沢で釣りをしてましたね」  
 都市部を流れる川とは異なり、沢の両岸には大小さまざまの岩がある。井口は、子どものころから岩に対する特別なシンパシーを抱いてきたという。  
 「苔が生えた岩を見ていると、なんだかとても落ち着くんですよ。年月を重ねて風化した岩肌が持つ、古くてひなびたテイストがすごく好きなんです」  
 高校卒業を迎えた井口は、すでに陶芸家になる腹を決めていたという。  
 「小さい頃から立体のものを手づくりするのが得意でした。それに、一つのことに集中して取り組むのがまったく苦にならないタイプなんです。ただ、いまになって思えば、この道を選ぶ決め手になったのは父の趣味の影響でしょうね。一品物の陶芸の素晴らしさがなんとなくわかっていましたから」  
 大学で陶芸を専攻した井口は、現代陶芸に欠かせない二大技法、轆轤と釉薬の基礎をより深く学ぶため、益子の窯業指導所の門をたたいた。もっとも、2年かけて習得した轆轤と釉薬を採用しないのが、いまの井口の作陶スタイルであるのは興味深い。
 「たしかに現在の自分の創作においては、轆轤も釉薬もほとんど出番はありません。でも、陶芸の基本中の基本をきちんと学んだことで、自分の作品の完成形をしっかりイメージすることができるようになったんです。窯業所で学ばなかったら、いまでもふらふらと悩んでいたかもしれないですね」  
 陶芸であれなんであれ、「読み書きそろばん」にあたる基礎は、直接には役立たずとも、実際に使う知識や技術の土台として欠かせないということだろう。

「さび」と出会う

 歩きはじめた芸術家が渇望することは、この世にひとつしかない。自分の創作スタイルを確立することである。  
 井口は土選びから始めた。試行錯誤の末、茨城県真壁の田んぼの土をメインに独自の配合でブレンドしたものを使うことにした。ただ問題があった。焼き上がりの質感があまりにも平凡だったのである。  
 そこで井口は、さまざまな素材を取り寄せては、素焼きしたサンプルピースに塗布し、本焼きをして仕上がりを確かめるというテストをひたすら繰り返した。  
 ある日、一つのサンプルが井口の目に止まった。塗布したのは籾の灰だった。ためしに少し大きめの器を焼いてみると、窯出しした器の肌は酒粕のような白い衣で覆われていた。急いでブラシで削り落としてみると、内側から見たこともない風合いの地肌が姿を現した。さびついた鉄のようでもあり、子どもの頃から大好きだった岩のようでもあった。  
 「これだ」。羅針盤の矢印が定まった。  
 素焼きした器に籾の灰を塗りつけて本焼きをすると、化学反応が起きて独特の風合いを持った肌に仕上がる。自身の開発したこの新しい技法を、井口は「銹陶」と名付けた。さびた陶器という意味である。    
 「さび」を意味する漢字は通常「錆」を使う。だが金偏に青の組み合わせがどうもしっくりこない。そこで辞書をたどり続けると異体字である「銹」が目にとまった。気に入った井口は、以来ほぼ全ての作品名にこの文字を使っている。たしかに「青い鉄」よりは「秀でた鉄」の方が井口の作品を語るには相応しい。  
 こうして陶芸家の骨となる創作スタイルを見いだしたものの、同時にそれは大きな制約を自らに課すこととなる。  
 「井口大輔の作品を手にする人には、銹陶の質感を味わっていただきたい。だから、釉薬は使えない。下地をガラス質でコーティングしてしまいますから」  
 志野、瀬戸、織部、益子。いうまでもなく、釉薬の技法とともに日本の陶芸は大きく開花した。釉掛けをしない作品だけだったら、日本の陶芸が世界的な評価を受けることはなかっただろう。その釉薬を使わないのだから、形や質感といったごまかしのきかない部分でアピールしなければならない。  
 「自分の作品にとって欠かせない要素をたった一つあげるなら、実は銹陶の技法ではなく、形なんです。釉薬を使わないことでさびの風合いを見せることはできます。でも、積極的なアピールにはならない。銹陶を楽しんでもらいたいからこそ、釉薬に代わる表現としての形にこだわっていきたいんです」  
 鶏が先か卵が先か。そんな話にも聞こえるが、苦労の末に見つけた銹陶の風合いを残すことにこだわる井口は、事実、造形に最大の時間と集中を注ぐ。

まず、美しさありき

 銹陶の風合いを出すために井口が選んだ道は、轆轤との決別であった。  
 轆轤を使った仕事は正確で早い。大量生産の日用品を作るには不可欠の技法であるが、他方で個性の喪失をもたらし、場合によっては美しさすら失う。
 「もちろん生活に根ざす日用品にも相応の美があります。いわゆる〝用の美〟ですね。でも自分が目指すのは〝美の用〟。美しさ先にありき、なんです。『美しいけど、いったいこれはなんに使うのだろう』と、あれこれ考えさせるような作品を創りたい」
 その美とはなにかと考えた時、益子の人間国宝・濱田庄司の言葉がふと浮かんだ。    
 「私の仕事が、作ったものというより、生まれたものと呼べるようなものになってほしいと思う」  
 人の手を借りることなく、人知れずぽとりとこの世に生まれ落ちたような、孤高の存在感。そういう気配をまとった作品に、人は美を見るのではないだろうか。井口の作品のなかにも、地割れした大地からむくむくと生まれ出てきた岩を想わせるものがある。  
 井口には五年間の弟子入り時代がある。縁あって、青磁の若き巨匠、浦口雅行のもとで研鑽を積んだ。当然、井口も青磁を学んだ。今も井口の工房には、当時の作品が〝思い出の品〟として置いてある。  
 「造形に徹底してこだわる姿勢は浦口先生から学びました。ただ、轆轤を使わず手びねりで自由に形を仕上げていくには、青磁の土は粘り気が少なすぎるのです」  
 結局井口は、師匠から学んだ青磁をも自身のスタイルとして採用しなかった。  
 釉薬、轆轤、青磁。これまでの井口の作陶人生は、安定走行の予測できるレールから降りること、その連続だった。それが決して強がりでも逃げでもないことは、作品の無二の個性をみれば明白であろう。すべての選択は、自らの創作のため。井口大輔は、陶芸家である前に、芸術家なのである。  
 芸術家とひとくちにいっても、食べていかなければならないのは他の仕事と同じである。一品物の陶芸家の場合、展示会で作品を売った分で生計をたてることになる。そのプレッシャーたるや相当と思えるのだが、どっこい井口は「もちろん緊張はあります。でも100 %の自分を見てもらえる喜びの方が大きいですね」と楽しそうに話す。  
 そもそも芸術に100 %という達成度があるのだろうか。疑問を投げかけると、「自分の作品の良し悪しの基準は『展示会に出せる作品かどうか』。『展示会に出せる作品』とは、そのときの100 %の自分を出しきった作品です」と即答が返ってきた。  
 芸術にはむろん100 %などない。しかし井口大輔の仕事には100 %がある。万人に通じる考え方であろう。

忘れえぬふたつの僥倖

 井口には、忘れることのできない買い手が二人いる。一人目は、はじめて自分の作品を買ってくれた客である。  
 「弟子に作品発表の機会を与えようと、先生が展示会を開いてくれたんです。自分の作品を会場に搬入している最中のことでした。ある方が自分の作品をじっと見ているんです。そしたら、まだ展示会が始まってもいないのに、買うというんですよ。衝撃でした」  
 照明すらあてられていない、裸のままの井口の作品を見たその客は、きっと「他の誰にも渡したくない」という衝動に駆られ、図らずも青田買いに走ってしまったのだろう。  
 あるとき展示会にひとりの女性客が来た。ひとしきり流すように見たあと帰ろうとしたので、井口はパンフレットを渡した。翌日、その女性客の娘が来場した。娘は今まであまり陶芸には関心がなかったが、パンフレットを見るやいなや、作品の放つ凄まじいエネルギーに心を奪われ、いてもたってもいられず来てしまったのだという。二人目の買い手であるその娘は、迷ったあげく数点の作品を買い求めた。  
 二人の買い手は、井口の名も顔も知らぬまま、作品の持つ魅力のみに引き寄せられて作家との僥倖をはたした。  
 筆者が井口の作品を初めて見たときと全く同じなのである。個展案内のリーフレットに収められた数点の作品画像。それを眺めていたら、何やら背中のあたりがぞくぞくして、しばらく脈が上がったのだった。  
 日本では有史以来、畏怖すべきものの存在があらゆる信仰の核にあり続けてきた。そういう民族の芸術において、〝おそれ〟という不可視の要素が評価の尺度にすえられるのはまったく自然なことである。  
 井口大輔の芸術は、すでに〝おそれ〟の領域に足を踏み入れているのかもしれない。当人はというと、いまはまだ造形に注力している段階だが、技法レベルからより深い場所に潜っていったとき、陶芸界の新たな地平が拓かれることだろう。(取材・文/ 佐藤 拓夫)

※記事写真の作品は販売しておりません。ご了承ください

1975  栃木県に生まれる
1998  東北芸術工科大学 芸術学部美術科陶芸卒業
1999  栃木県窯業指導所研究生修了 浦口雅行氏に 師事
2002  第4回益子陶芸展 入選  (以後 第5回、第6回、第7回)
2004  栃木県真岡市に築窯 独立
2007  第47回東日本伝統工芸展 入選 (以後 第48回、第51回、第52回)
2008  第7回益子陶芸展  審査員特別賞
2011  第58回日本伝統工芸展 入選
2012  菊池寛美記念智美術館「茶の湯の現代」 入選

 

個展   日本橋三越本店、名古屋松坂屋、広島天満屋、つかもとギャラリー、金澤美術
ギャラリーTAS TAS、ぎゃらりぃぜん(満福寺客殿にて)、現代工芸藤野屋  他

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