アーチスト紹介

土の可能性を探ってみたい

 初めて泉田之也の作品を見た時の印象は、「これが焼き物?」だった。土でありながら鉄のようでもあり、軽さを感じさせるという第一印象はかなり矛盾したものであり、頭のなかでそれらが整合しなかった。
「土の可能性を探ってみたい。薄さ、脆さ、儚さ、軽み……。へぇ〜、土でこんなことができるんだと思えるような意外な顔を見せたいんです」
 陶器は磁器やガラス器などと比べて、自然に近い。万物を育むのは水と土と空気。とりわけ〝土に還る〟と言われるように、土は万物の母だ。
 泉田の陶器はどうだろう。風を受けてふわりと浮かび上がりそうな印象があり、鈍重な重苦しさがない。軽さこそ、泉田の真骨頂と言えるだろう。
 一方、泉田は黒楽のような重厚なものも好きだと言う。
「特に長次郎は好きですね。教科書で見た時は感動しました。まるで彫刻のようだって」
 あのぼってりとした肉厚の陶器と泉田のそれはかなりかけ離れているように思えるが、土の魅力を凝縮させている点において、両者は共通している。
「土っぽい」とは、素朴、土着的、飾り気のないなどといった意味で使われることが多いが、泉田の土っぽさには洗練された趣がある。自由な形ゆえだろう。

着想は手で得る

 着想をどのようにして得るか。これは創作をする者にとって、最初の重要なハードルと言えるだろう。泉田はよく紙を使う。
「使用済みのハガキとか、要らなくなった紙を自由に折っていくんです。なにも考えないで。考えると作為的な形になってしまうので、なるべく手の感覚を信じ、感じたままに折っていく。すると、ふと風景が見える瞬間がある。自分がそこにいるような感覚です。原風景と言っていいかもしれません。手がつかんだ形と言うのでしょうか。それをヒントに創作するのです」
 泉田にとって、「無心に紙を折る」という行為が、インスピレーションの泉とつながっているのだ。道理で泉田の作品を見た時に、紙のような印象を覚えたわけだ。
「頭より手の方がわかっている場合が多いんですよ」
 泉田が現場で学んだことのひとつだ。
「使いやすさはあまり重要視していません。むしろ、面白いか面白くないか。その一点に集中し、創作しています。そのため、実用性を重視する評論家からは批判されることもありますが、陶芸はもっと用から解放されてもいいと思うのです」
「土の意外な面を見たい」「土の可能性を試したい」と考える泉田は、心のままに作品づくりをしているからこそ、作家として独自の地歩を得ているのだろう。

別名「すり鉢作家」?

 泉田之也は1966年、岩手県陸前高田市に生まれた。
 子供時代は内気で、成績が良かったのは美術だけだったという。
 卒業後、中堅の住宅メーカーに入社し、3年間、営業をした。しかし、「好きなことをしたくなって」退職し、故郷へ戻ることを決意する。
「とにかく物づくりをしたいと思っていました。木工でも鉄工でもよかったのですが、粘土が好きだったので陶芸家を目指そうと思ったのです」
 生家に戻った後、知人の紹介で小久慈焼の窯元・下嶽岳芳氏に師事することになった。その窯は大量に陶器を作っていた。
 泉田は掃除、鋳込み、土作りなどさまざまな雑務をこなし、夜はひとりで轆轤を回した。初めて轆轤をひくことができた時は、「これで食べていける」と直感が走ったという。「最初から不安はありませんでした」と言うのだから、その楽天性には驚くばかりだ。
 その後、見よう見まねで織部、志野焼などいろいろな作風に挑んだ。
 3年後、久慈市の近くにある野田村の窯に空きが出て、陶芸家を募集していた。すかさず泉田は「僕が行きます」と手を挙げ、野田村へ移住する。故郷の陸前高田から太平洋岸を北上すると、青森県との県境近くに、その小さな村はある。
「陸前高田は比較的温暖な土地ですが、野田村は外海に面していて、荒海で強い風が吹いてきます。圧迫感のある土地ですが、その分、生きている! って思えるんですよね」
 1995年、28歳の時だった。
 泉田は独立後もずっと生計に困ったことはないと語るが、そのような恵まれた境遇をもたらしたのは、ある公募展で入賞したことがきっかけとなった。師の岳芳氏は公募展に応募することを由としていたことで、積極的に応募していたのだ。日清食品現代陶芸「めん鉢大賞展」で優秀賞を得た。以後、2009年まで幾多の公募展に応募し、多くの入選を果たしている。
「僕は別名すり鉢作家と呼ばれるくらい、たくさんすり鉢を作っています。売れ筋作品ができたおかげで、好きなものを作ることができるのです」
 すり鉢の注文は今でも途切れることはなく、常に3〜4ヶ月待ち状態だという。

自分独自の風合い

 泉田は〝土地性〟を大切にしている。
「地元の土を使うことは避けて通れないと思っています。使いづらくても、なんとかするのが作家の醍醐味でしょう」
 創作に用いる土は、すべて地元のものだ。海岸に近いためか、塩分を含んだ粘土質が特徴だ。赤、黒、黄色が重なった地層から自分に合う土を見つくろい、袋に詰めて片道一キロの道のりを何度も往復する。重さは約20キロ。肩にずしりとのしかかる。
「冬の作業は特に厳しいですね。しかし、だからこそ、その重さをなんとかして軽くしたいという思いが僕の作風につながっているのかもしれません」
 全国にいくつもの陶芸の名産地があるが、泉田が住む野田村と久慈市一帯は、最北端のひとつと言っていいかもしれない。
「青白磁など、あまりに整えられたものは僕の好みに馴染まないですね」
 そう語る泉田の作風は、すでに書いてきたように、独特の〝軽さ〟や〝儚さ〟があるが、それらに加えて、北東北地方という土地性も感じられる。
 それをひとことで言えば、自然の風合いとなろうか。釉薬をたくさん用いない泉田作品の色調は、地球が本来有している自然の色に近い。
「色にはこだわりがないんです」と語る。この言葉は、形にはこだわるという意味を含んでいるにちがいないが、もうひとつ、こだわりがある。それは経年変化を感じさせる、独特のテクスチャーだ。整然とした青白磁に惹かれないという泉田は、時間の流れを感じさせるものに愛着をもっているようだ。
「子供の頃から、ひび割れたものや乾燥させた鮭、干物、朽ちた船、骨董、お寺などが好きでした。きれいな花より、散って干からびたようなものの方が永遠を感じさせます。僕の作品は自然の色を基調としていますが、白っぽいところがあったり、焦げた感じのところがあったり、金属っぽいところがあったりします。そういう色合いを出すために、いろいろな工夫をしています。土に灰を混ぜたり、マンガンを混ぜたり、他の土を混ぜたり……。そういう実験を重ねて、自分が求める色合いを見つけていくんです。狙った通りに表現できた時はほんとうに嬉しいですね」

大きな地球の上での小さな営み

 社会人になりたての頃、物づくりをしたいと思った泉田が陶芸を選んだ理由のひとつは、陶芸なら前衛的な表現ができるということであった。だからこそ、ありきたりな器だけをつくり続けることは泉田の意思に反することだった。
「焼き物という概念にとらわれずに、建物の廃材や流木などに土を貼っていくということにも挑戦しています。言ってみれば、左官のような作業ですが、土が固まっていく過程の表情って意外に面白いんです」
 時間の流れを感じさせる素材に土を貼って、焼くという手法だ。
「僕は一度やった仕事にはあまり興味が湧かないんです。なにごとも一回目が楽しいんです。だからなのか、変化することにあまり抵抗がありません。自分はこれをつくりたいという気持ちに正直に創作活動を続けていきたいと思っています」
 すでに、高さ3メートルを越す大きなオブジェも作りあげた。直径は4メートルもあり、中はワイヤレスメッシュで外側に土を塗って焼いた。もちろん、野外制作である。陶芸の新たな領域を切り拓く端緒についたと言っていいだろう。
「軽さや儚さも土の意外な面ですが、大きさもそうだと思います。土でこんなに大きなものがつくれるんだと驚くくらい大きなものをつくってみたい。もともと地球自体、大きな焼き物みたいなものですよね。その大きさにはとうていかなわない。その大きな地球に生かされている小さな人間がどれくらいのことをできるのか。その痕跡を残したいですね。日本だけではなく、世界を舞台に」
 地球の上から己を俯瞰すれば、その存在がいかに儚いものか、思い知らされる。だからこそ、泉田の視野には〝世界〟が入っているのだろう。芸術は言葉の壁を乗り越えることができる。言葉を介すことなく、見る者の感性を揺さぶることができる作品をつくることができれば、そのまま〝世界に通用する陶芸家〟になれる。
「言葉が通じない人にも感じてもらえる作品をつくっていきたい」
 泉田は静かに野望を語った。

※記事写真の作品は販売しておりません。ご了承ください

1966年、岩手県生まれ
1992年、小久慈焼窯元岳芳氏に師事
1995年、野田村にて作陶始める。日清食品現代陶芸「めん鉢大賞展」優秀賞
2000年、第38回朝日陶芸展グランプリ受賞
2007年 「のだ窯ギャラリー IZUMITA」オープン
個展多数

作品のご購入・アーチストへのコンタクト・アポイントに関しては、
すべて神楽堂を運営している「神楽サロン」にて承っております。
右の【お問い合わせ】ボタンをクリックして、お問い合わせください。