アーチスト紹介

懐の深い沖縄の感性を表現する

 シーサーは魔除け、そう思っている人が多いかもしれない。たしかに、もともとはエジプトのスフィンクスから発祥した獅子像で、王や貴族の富や権力の象徴、あるいは魔除けという意味合いが強かったが、沖縄に伝来して性質が変わった。
 「魔除けというのは、邪悪なものをよけるというもので、悪いものがよそに行ってしまうだけで、消えてなくなるわけではありません。それでは根本的な解決にならないと沖縄の人は考えたんです。シーサーは邪悪なものを受け止め、そのうえで邪気をとりはらうという役割をしているのです」
 なるほど。魔除けというものは、ゴミをよその家に捨てるようなものだと昔の沖縄の人たちは考えたのかもしれない。自分だけがよければいいという考え方ではなかったからこそ、生まれた発想だ。
 宮城は、〝アーティストになる〟と心に決め、飛び込みで武者修業を続けてきた。その過程で、沖縄独特の発想に気づかされた。もしかすると、沖縄の人たちの発想は、世界に山積する難題を解決する糸口になるのではないか、そして、それを象徴するのがシーサーではないか、そう思えるようになった。

 宮城は、1976年、沖縄県那覇市に生まれた。父親は武蔵野美術大学で油彩画を専攻し、卒業後、故郷の沖縄に戻り、油絵を描きながら民芸品店を営んでいた。
 間近でさまざまな美術品を見る機会に恵まれ、光男少年の感受性は大いに刺激された。父といっしょに仕入れに行っては初めて見る美術・工芸品に感銘を受け、早くも5歳の頃、将来アーティストになろうと心に決めている。
 特に夢中になったのは陶芸だ。
 「陶芸家を見ていて、羨ましいなあと思いました。どろんこ遊びで食べていけるんだから。しかも先生って呼ばれているし(笑)」
 近所に美術教師のタマゴが子どもたちに美術を教える教室があり、少年時代の宮城は足繁く通った。土代と焼き代を合わせて300円ほど支払うと、手びねりで作品をつくらせてもらうことができた。
 「それまで土だったものが、焼き上がるとピカピカの造形物に変わるというのが不思議でしたし驚きでした」
 中学を卒業した宮城は、地元の進学校の芸術科コースに進学する。その高校は自宅からじゅうぶん通える距離にあったが、少しでも多くデッサンの時間を確保したいと思い、主に離島出身者が利用する寮に入る。そして、三年間、デッサンや絵の勉強に専念した。絵を学べば学ぶほど、本物の画家たちの凄さがわかった。特に魅了されたのは、ピカソだった。絵画で独自の境地を拓き、さらに立体やラベルのデザイン、果ては出版まで手がけた底知れぬ〝20世紀の巨人〟のパワーに、宮城はうちのめされた。
 「父親からは何度も〝絵で食べていくのは大変だぞ〟と言われていました。そう聞いていたからというわけではないんですが、その頃から焼き物をやりたいなと思っていました。焼き物は僕にとって立体彫刻でもあり、絵も描けます。また、食器や花器としての用途もあるので売って生計をたてやすいのではないかという思いもありました」
 大きくなったらアートの仕事をしたいと思っていた宮城だが、高校を卒業する頃になると、〝焼き物〟というカテゴリーに絞られていく。その思いに従い、高校を卒業すると、自ら陶芸の世界へ飛び込んでいくのである。
 焼き物の道で生きていくことを決意した宮城は、読谷村にある窯元で働くことになった。学生時代と同じように、ここでも住み込みという形式を選んだ。不自由ではあるが、一日中、修業に勤しむことができる。
 そこでは、小さな掘っ立て小屋を与えられ、ハブが入ってこないように蚊帳をつるし、その中で生活をした。
 「とにかくきつい仕事でした。その窯元はまるで軍隊のようで、先輩の言うことは絶対でした。朝から晩まで奴隷のようにこき使われ、一日が終わる頃はヘトヘトに疲れました。生まれてから今まで、あの時よりつらい思いはしたことがありません。でも、あの試練を乗り越えたことが、その後の僕の支えにもなっています」
 宮城は黙々と働いた。炎天下、ひとりで大きな土の山をある場所からある場所へ移動させたこともあれば、師匠の子どもの世話をすることもあった。
 焼き物をさせてもらえず、〝こづかい〟も5万円程度。それでも卑屈にならなかったのは、将来、伝統の美と現代アートが融合した「民藝術」という道で生きていきたいというはっきりした目標があったことと親から〝大学はお金を払って教えてもらうところなのに、おまえはプロに教えてもらってお金ももらえるのだから運がいい〟と言われていたからだった。まだ、世間のことをよく知らなかった宮城は、社会人というものはそういうものだと思い込んでいた。
 その窯元では、朝までに掃除を済ませておけばいろいろな道具を使ってもいいという決まりがあり、時々、兄弟子たちが「今日はロクロを使ってもいいぞ」と声をかけてくれた。そういう時は、決まって作業場がひどく汚れている時だった。早く土をいじり、焼いてみたいと渇望していた宮城にとって、道具を使える時間はなにものにも代え難かった。
 いい作品ができると大事にしまっていたが、師匠に見つかると「生意気だ」と粉々にされた。兄弟子たちは追い越されるのがイヤで後輩に教えてくれることはなかった。
 そのような環境に飛び込んでくる若者がいるはずもない。つまり、宮城は最後の住み込み丁稚だったのである。
 それでも、宮城が耐えられたのは、焼き物で生きていくために釉薬の配合を学ぶという目的があったからだ。土の整形などと異なり、釉薬の配合は勘や経験だけで修得できるものではない。何と何をどのような配合で混ぜ合わせ、どれくらいの温度で何時間焼くかによって仕上がりの色は変わってしまう。
 宮城は師匠や兄弟子たちの仕事をつぶさに観察し、3年かけて釉薬の技術を修得し、夜逃げするように窯元を脱出する。
 それが宮城の独立だった。

捨て身で学べば、多くを体得できる

 宮城は気づく。自分はいろいろ学びたいのであちこちの工房を回りたい。しかし、辞めるときにすんなり辞めさせてもらえないのは、報酬をもらっているからだということに。
 そこで、短期間、住み込みでバイトができる仕事場を確保し、あとは好きなところへ飛び込んで行って、〝給料はいらないから働かせてほしい〟と飛び込みするという戦術をとった。
 「工房を辞めた後、本土に行きました。たしかに沖縄は日本ですが、中国の文化が色濃く残っています。だから、これぞ日本! というものを見てみたかったんです。信楽焼の窯元、和紙の工房、鬼瓦製作の工房など、さまざまな現場に行って、いろいろなことを教えてもらいました。そこで働く人たちも、〝こいつはタダだからね〟とか言って、訊けばなんでも教えてくれるんです。その過程でわかったことは、沖縄のレベルは低くないということでした。沖縄の土は良くないので、その分、技術は高かったのです」
 そう感触を得た宮城は、沖縄に戻り、マンションのベランダにアトリエを構える。プロパンガス用の窯をバラバラに取り寄せて、部屋で組み立て、制作を開始した。
 「居住者向けの規約を読んでも、ペット禁止とは書いてあるものの窯禁止とは書いていない。そこで、こっそり夜中に窯を焚いたんです。するとガスの音はするわ、1000度近くなると炎は暗闇にあがるわで、大変なことになってしまったんです(笑)。そこで、昼間焼くようにしました」
 そうやって焼き上げたシーサーを土産物店に持ち込み、お金に換えた。
 その後、その時に稼いだお金をもとに、京都造形芸術大学へ進学するが、すでにさまざまな現場を体験している宮城にとって、学ぶべきものはほとんどなかった。すぐさま自主卒業し、シーサー作家として生きていく決意を固めた。23歳の時であった。

産業廃棄物ではなく、新たな命として

 京都・鹿ヶ谷に安楽寺という古刹がある。2007年、創建800年という節目の年に伽藍の修理や屋根瓦の葺き替えが行われたのだが、その際に発生した大量の屋根瓦材は、産業廃棄物として処理される運命にあった。
 しかし、住職は、長い年月、寺を見守ってくれた屋根瓦を産業廃棄物にするのはしのびないとし、何か使い道はないものかと思案していた。
 そのことを知った宮城は、さっそく京都へ飛び、その屋根瓦材でシーサーをつくりたいと申し出た。前述のように、シーサーはもともと余った材料を活かしてつくられるもの。いわば、ゴミを新たな命に変えるというものでもあった。大量の屋根瓦材を産業廃棄物として処分するのではなく、それを用い、新たな命を吹き込む。それには、シーサーこそふさわしいと直感が走ったのだった。
 住職は快諾し、境内の一角にアトリエを用意してくれた。
 「創建800年なので800体つくろうと思いました。僕はそこでパンツ一丁になり、音楽をガンガンかけながら2年間かけてシーサーをつくり続けたのです」
 由緒ある寺が用意してくれたアトリエも、宮城にかかっては、かつてのソーホーやイーストヴィレッジのごとき風情となってしまう。それを由とした寺もまた懐が深い。
 そうやって仕上がった800体のシーサーは、まず安楽寺の境内で展示された後、そのほとんどは檀家に送られることになった。住職の願いが宮城によって叶えられ、古い屋根瓦材は新たな命として生き始めることとなったのだ。
 「京都を歩いていた時、ある家の前に魔除けがあったのですが、その家の前に魔除け返しがあったんです(笑)。結局、誰だって悪いものは呼び込みたくない。でも、自分のところはスルーしたとしても、他の家に行ってしまったら根本的な解決にはなりません」
 その点、悪いものを受け止め、邪気を消し去るという考え方を表したシーサーは、絶え間なく紛争が続く国際社会において、有用なヒントになるかもしれない。

チムグクルの精神とは

 シーサーは一見怖そうだが、鬼のように睨んではいない。どこかに愛嬌がある。
 「ほんとうに怖い表情にしたら悪いものが怖れをなして逃げてしまい、魔除けになってしまう。沖縄の人は、チムグクルというのですが、迫力の中に温かい心が感じられるのがシーサーの特徴です。チムとグクルも心という意味。心の心の奥という感じでしょうか。日本語で言うのは難しいのですが……」

 子どもの時分に無我夢中で取り組んだもの。宮城はそれを忘れずに、今でも好きなことを続けている。それが期せずして、自分にとっても社会にとってもプラスになっている。それこそ人生の妙というものだろう。(取材・文/高久 多美男)

1976年、那覇に生まれる
1999年、故・國吉清尚氏の工房にて制作活動開始「沖縄県工芸展」3作品入選
2000年、沖縄県立博物館にて「琉球古典漆喰シーサー」の講師を務める
2001年、「沖縄県芸術祭」入選
2002年、恩納村博物館にて「琉球古典漆喰シーサー及び琉球民藝術」の講師(以降、毎年)。「沖縄県芸術祭」入選
2003年、那覇市壺屋に「琉球民藝術館」「ギャラリーMITSUO」オープン。「沖縄県芸術祭」2作品入選/「第3回武井武雄記念 日本童画大賞 イルフビエンナーレ」入選
2005年、那覇市牧志に「MITSUOシーサー美術館」開館

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