アーチスト紹介

何かに導かれるままに益子へ

 坂田甚内。現代の陶芸界で、この人ほど、アグレッシブな作家はいないだろう。
 とにかく、着想が大胆不敵だ。「僕の前に、道はない。僕の後ろに、道は出来る」という高村光太郎の詩を体現するかのように、次々と荒野を開墾していく。さらに、上空から全体を俯瞰する冷静な目を持ち、縄文へと思いを遡らせることのできる歴史観、宇宙観、自然観、宗教観を携えながら。
 その結果、成功もあれば失敗もある。しかし、坂田は失敗を恐れない。周囲の目も気にしない。恐れるのは、芸術家として停滞、それのみ。だから、自己模倣を厭う。
「この国では、ひとつのことをコツコツと続ける人が尊敬されるけど、僕は自分がやりたいと思ったことを迷わずやり続ける」
 野球少年だった坂田は、プロを目指し、早稲田実業高に入学した。しかし、中学時代の激しい練習がたたり、ドクターストップを下される。
 失意の日々をおくるうち、ある日、酒の勢いもあって、友人たちとどこかへ行きたくなり、上野駅から最終の東北本線に乗り、古河駅に降り立った。そのまま駅のベンチで夜を明かし、真岡線の一番列車に乗った。そして、降り立ったところが益子だった。
 益子での体験は、坂田の人生を大きく変えることになる。東京へ帰ってからも益子で見た陶芸のことが頭から離れない。数ヶ月後、坂田は布団を持って電車に乗り込んだ。訪ねるあてはなかったが、行ってしまえばなんとかなると思った。そして、本当になんとかなってしまった。なんと、当時、天才陶芸家としてその名を広めつつあった加守田章二の弟子となってしまったのである。
 土もみ、灰濾し、庭掃き、子守りなどの雑用をこなし、半年を過ぎる頃からロクロの練習を許された。
 通常、陶芸界では、「土もみ三年、ロクロ七年」と言われ、独立するまでに十年は要するが、加守田は、早い独立を是とし、坂田は一年半の修業期間の後、23歳という若さで独立することになる。

荒野の向こうにあったもの

 独立した坂田は、大きな登り窯を年に六回焼くことを自分に課して、毎日15時間くらい仕事に打ち込んだ。しかし、ただ、がむしゃらに創作をしたわけではない。今では坂田甚内の十八番と言える黒と白の窯変を生み出すために、その頃からさまざまな創意工夫をしている。窯の中のどのあたりに置けば、どのような窯変ができるのか、研究しながら自分なりの表現を模索した。
 黒陶波状文。ゴツゴツした黒い肌に彫られた波状の文様。小気味いいほどに男性的で、圧倒的な存在感を醸し出す。その作風に縄文式土器、とりわけ火焔式土器を連想する人は多いだろう。

坂田甚内らしさ

 坂田の象徴とも言える「波状文」は、地・水・火・風・空といった自然界の流れを表しているという。
「現代の物理学では人体を分解すると、最後は波のようなヒモ状になると言われているが、波状文はそういった人体の究極の姿でもあり、宇宙を構成する地・水・火・風・空の姿でもある」
 波状文と並び、「坂田甚内らしさ」と言えば、黒という色の使い方にある。「黒陶波状文」は坂田甚内のひとつの到達点だ。東洋の陰陽五行という自然観に照らし合わせると、黒が最も重要だと坂田は言う。
「黒は地味な色だが主張が強く、すべての色を含み込み、華麗な気品を醸し出しつつ、地に足のついた重さも表現できる。水を含むとしっとりと艶が出てくるところもいい」
 その独特な艶消しの黒を発色させるには、炭化焔焼成という方法が用いられる。木材を薄く切ったチップを、レンガで作った大きなサヤに作品とともに入れ、1200度から1300度の高温で、約48時間、蒸し焼きにする。燃焼に必要な酸素の供給を少なくし、炭素の多い焔で焼成するこの方法は、益子に来て知った炭焼きに着想を得たという。

坂田甚内のアート観

「若い頃は食べるために必死だった。食べていくために、少しでも売れるものを、と思い、皿や小鉢を懸命に作った。でも、心の中のどこかに虚無感があった。自分の作家としての使命はこんなものじゃない、といつも葛藤があった。だから、芸術としての陶芸を目指そうと思った。僕はずっと開拓者・開墾者でありたい、と。でも、その中にも現実はある。食べていかなくてはいけないという現実、家族を養わなければならないという現実。
 ある時から、僕の創作は自分の山づくり、いや墓標づくりではないかと思えてきた。この歳になって、ようやく自分のやりたいことが自然体でやれるようになってきた。アートとは芸術でありながら、科学でもあり、宗教でもある。一見、何の役にも立たないと思われがちだが、人間が人間として存在する上でとても大切な役割を担っているもの、それがアートの本質なのだと思う」
 用の美という言葉がある。陶芸界の「用の美」と言えば、日常で使う機能性を有しながら、美しさも兼ね備えているということだろう。
 しかし、坂田の概念はそれを遙かに超越している。坂田のアート観を聞いていると、日常の生活において使えるとか使えないなどということはじつに些末なことだと思える。
 坂田が目指すもの、それをひとことで言えば、絶対美の追究ということになるのだろう。

いつもカミを心の中に

「この仕事をしてきて思うのは、自分は、この宇宙に、地球に生かされている一個の生物に過ぎないということ。周りの木や虫や鳥たちと変わらない。この自然に生かされているという点では、みな同じだ。人間だけが特別な存在ではない」
 約20年前、坂田は毎年のようにヒマラヤに登っていた。その時に得たインスピレーションは、極めてくっきりと坂田の精神に刻まれている。山の絶対的な造形美に圧倒され、また、そこで生活の営みを続ける人たちの姿を見て、人間の限りない同調性に驚愕した。
 以来、坂田は常に自然界の中にいる神を意識するようになった。本人は無宗教だと言うが、神への畏敬の念は増すばかりだ。
「空に浮かんでこの地球を見ると、川は血管のように見えるし、宇宙から見ると、海洋や大陸は五臓六腑に見える。結局、この地球、いや宇宙全体までもがひとつの生命体だと思える。僕たちの体と同じような構造をした生命体。だから、地球にも宇宙にも霊魂は宿っていると考えて不思議ではない」
 結局、坂田甚内の特徴をひとことで言えば、「やりたいことに忠実であること」ということになるのではないだろうか。
「僕は回遊魚のような男。マグロのように、ずっと全速で泳いでいなければいけない。やろうと思ったことはやらずにはいられない性格で、ある意味、困ったものだと思う(笑)。でも、それは昨日、今日始まったことではない」
 マグロのように全速で前へ進み続ける坂田甚内。自分らしさを保ちつつ、つねに新たな境地を拓くどん欲な陶芸家は、これからどこへ向かうのだろうか。(取材・文/高久 多美男)
※記事写真の作品は販売しておりません。ご了承ください

1943年、東京生まれ
1964年、益子の加守田章二氏に師事し、陶芸家の道を歩みはじめる。2年後、築窯し独立
1992年、益子に桜杜工房を作り、制作の拠点とする
陶芸の他、ガラス作品、ハイパードローイングも手がける
出雲大社、大英博物館、 ロックフェラー財団、比叡山延暦寺、高台寺、アメリカ大使館等が氏の作品を収蔵

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