アーチスト紹介
菅野 敬一

菅野 敬一

エアロコンセプトは菅野敬一の思いの媒体

 町工場の職人から一躍世界に名を轟かせるまでになった菅野敬一とは、いったいいかなる人物か。菅野の〝肝〟は、次の言葉に集約されていると思っている。
「何日間もイワナ釣りで山に入ることがあります。ビニールシートだけを持って。岩は熱をはらんでいるので適当な岩を見つけて寝場所を確保し、ビニールシート一枚かぶればどこでも寝られます。昼間、青い空の向こうには宇宙が広がっていると想像するけど、山の中で漆黒の闇に包まれていると、自分の皮膚の際まで宇宙がきているのを感じる。自分と宇宙が一体になったような感覚というか、自分は宇宙の一部なんだとはっきり実感できる。そういう体験をしてしまったら、目に見えるものから得られる感動には限界があるということがわかります」 
 取材中、沖縄からメールが届いた。インターネットを見て、ある商品を購入したいのだが、どうすればいいか、と。
「注文が入ったから、はいすぐに送りますよということはしたくない。実際に商品を見て、感触を確かめた上で買ってほしい。モノとの出会いというのはそういうものだから。実物を見ることができないという話になってしまうと、〝じゃあ沖縄までお持ちしましょうか〟ということにまでなりかねない」と言って屈託なく笑う。まさに子どものような表情で。 
 菅野の辞書に、合理性とか効率とか便利などという言葉はない。あるのは、自分が作ったモノと、それを所有する人との間に生ずる魂の交流を願うこと、それのみ。だから、妥協という言葉もない。
「祖父さんの代から継がれてきた会社が倒産して毎日死のうと思っていたとき、何が大切かわかったのです。仮に大金を持っていたところで冥土のみやげにすることもできない。それよりも、人との出会いなど、心が温かくなれる瞬間をいかに数多くもちえたか、といったことの方が遙かに価値があるとつくづく思ったのです」 
 エアロコンセプトは、一般にあるようなマーケティング理論に基づいてつくられたブランドではない。そういう手法とは正反対にあるといっていい。菅野が「徹頭徹尾自分が欲しいと思うモノ」を追求した結果、生まれたものである。だから、エアロコンセプトのひとつひとつは菅野自身でもある。菅野の人となりや思いがひとつの形になったものだ。だから、エアロコンセプトを持つということは、菅野の思いを共有するということでもあるし、モノを媒介にして、菅野の心情と交歓する機会を得ていると言い換えてもいいのではないだろうか。

いきなりハシゴをはずされて

 菅野は昭和26年、東京・麻布に生まれた。生家は板金加工を生業とし、祖父や父が一緒に働いていた。
「終戦直後、何もなかった時代に渡り職人をしていた祖父さんが粗末なバラック小屋を建て、ほそぼそと始めたのがそもそものスタートです」 
 やがて日本は急速に経済成長を遂げ、それにともなって菅野一家の仕事も増えることとなる。昭和32年、株式会社菅野製作所を設立し、住み込みの従業員を数人かかえるまでになった。菅野製作所は祖父から父、そして菅野へと代替わりをし、業績も順調に伸びていた。顧客のほとんどは一部上場の大企業。菅野製作所の精巧な技術は大きな評価を得、前途洋々に思えた……が、思わぬ落とし穴があった。 
 バブルが弾けた頃だった。当時、売り上げの8割を占めていた大口の得意先が日本興業銀行出身の社長に交替したとたん、製造部門を中国へ移転することに決めたのである。その会社は町工場から一代で一部上場まで上り詰めた会社だったが、トップは〝効率〟や〝合理性〟を求め、〝目先の利益〟だけを追った。それまでさんざん、「どんどん発注するから設備を増やせ、人を増やせ」と言われ、言われるままに設備投資をしてきた菅野製作所にその激震を乗り越える力はなかった。
「私が社長になって2年くらい過ぎた頃でした。それまで納期や価格など、かなり厳しい条件で私たちなりに協力してきたつもりでしたが、いきなり仕事がなくなり、資金繰りが悪化してしまったのです。自分では何も悪いことをしていないのに、突然犯罪者に仕立てられたような気持ちになりました」 
 下請けや孫請けの立場にある町工場に、発注元である大企業と対等に交渉する力はない。あるとすれば、他社にはないオンリーワンの特殊技術などをもっている場合のみだろう。生産量を増やせと言われ、それに応じなければすべてを失う。かといって、言われるままに設備投資をしても突如はしごをはずされてしまうことが多々ある。
 巨額の借金を抱えた菅野は、袋小路に追い込まれた。八方ふさがりのなかで考えることは、〝いつ、どうやって死ぬか〟だけだったという。しかし、次の瞬間には家族や従業員のことが頭に浮かび、ふみとどまる。そのようなことを繰り返すまま一年が過ぎた。
 菅野を窮地から救ってくれたのは、他にはない特殊な技術と父親だった。
「こういういきさつで残念ながら倒産せざるをえなくなりました、と得意先に挨拶回りをしたのですが、そのうちの数社が、『それは困るよ、おまえのところで作ってくれる部品はよそでは作れないのだから。仕事ならいくらでも出すから、仕事を続けてくれないか』と言ってくれたり、『以前、あなたの父親にはほんとうにお世話になった。その恩返しをさせてくれないか』と言って仕事を発注してくれた会社もありました。また、ある人が銀行にすべてのいきさつを説明してくれ、取り引きを続けてもらえるようにしてくれたのです」
〝天は自ら助くる者を助く〟〝情けは人のためならず〟……、古から伝わっている至言には多くの真理が含まれている。菅野が再び生きる動機を得たのも、まさにそういうことだった。代替のきかない独自性と時代が変わっても摩耗しない人と人との絆。山あり谷ありの人生において、真に自分らしい生き方をするためには、「自分の得意なことを磨き、それによって人から感謝されるような仕事をする」ということに尽きるのではないだろうか。倒産、そしてその後の再起に至る間、菅野はさまざまなことを考えた。それまで、自分は職人として生きてきて、ひたすらいいモノを作りたいという一念で仕事をしてきた。しかし、自分以外の第三者に生殺与奪を握られているという冷厳な事実に気づかされたのである。さらに、どんなに精魂込めた仕事をしても、感謝されることはなく、最後には「もっと安く作れないか」と言われるのがオチだった。そのような状況を脱す方法がすぐに見つかるはずはなかったが、自分はこれから何をよすがに生きていけばいいのかと真剣に考えざるをえなかった。 
 そのとき、ふと頭に浮かんだのが、「自分が欲しいと思えるモノを作ってみよう」だった。自分の美意識にかなったモノを誰にも邪魔されず、思う存分作る。自然の美しさに感動した画家が無心に絵筆をとるのと同じように、菅野はそれまでに培った技術をベースに自分が欲しいモノを具体的な形にしていった。それが、ジュラルミンやアルミ合金に穴を開けるというインスピレーションの源だった。

自分の欲しいモノを作る

 再起した菅野の会社は、航空機の部品を数多く手がけていた。航空機は軽量化のためにさまざまな工夫がなされている。ジュラルミンという薄い金属にいくつもの穴を開けるというのも強度を保ちながら軽量化を図るためだ。エアロコンセプトのデザインアイデンティティは、その技術を応用したものである。 
 デザインだけではない。エアロコンセプトには、精密板金職人ならではの手業が随所に生かされている。アルミを美しく曲げる技術、精緻な溶接など、少しでも現場のことがわかる人が見れば、その完成度の高さに驚嘆するはずだ。
「でも、本来は特殊な技術ではないのです。ひとつひとつは昔から引き継がれてきた伝統的な板金技術を応用しているだけです。この技術がどうして評価されているかといえば、多くの生産現場で効率化と合理化を最優先した結果、機械によるオートメーション化が進み、職人の手業が淘汰されてしまったからです。発注側も「機械がもっているスペック内でいいよ」と妥協し、本来モノ作りにこだわらなければいけないはずの職人たちも生きるために従わざるを得ない。職人が機械のオペレーターになってしまった結果、ずっと昔から引き継がれてきた日本の職人の技術が失われてしまったのです」 
 効率性、利便性、合理性のみを重視し、経済のパイを膨らませることには、大きな代償がともなっているという現実をわれわれは知るべきであろう。自分の仕事の流儀は自分で決める 自分が欲しいモノを作る、という動機で始まったエアロコンセプトは、気がつくと会社の売り上げの7〜8割を占めるほど大きく成長した。不思議なものである。マーケティング理論に基づいて商品開発をし、莫大な宣伝広告費をかけても売れないものは売れない。一方、エアロコンセプトはオーダーから納品まで数ヶ月待ちという状態だ。しかも、依頼主の要望がすべて菅野に聞き入れられるというわけではない。野暮なモノは作らないという菅野の不文律があるからだ。「例えば、カバンをもっと厚くしてほしいと言われても、それは野暮なのでできませんと断ってしまいます」と言って菅野は笑う。いろいろ訪問したついでに来たというのではなく、あなたのために来ました、という潔さがいいというのだ。「従業員も誇りをもって仕事をしてくれています。以前はどんなにいいモノを作っても、感謝されるより価格交渉の話になってしまいました。今は自分たちの得意な技術を発揮し、値引き交渉もなく、購入した人から〝感動した〟と感謝されるのですから、天と地ですよ。倒産したときも誰一人会社を去らず、ずっと私を信じてくれた社員たちですから、彼らにそういう歓びを与えることができたというのはすごく嬉しいですね」 
 エアロコンセプトのファンは世界中にいる。ウエストミンスター公、モナコ国王、アブダビ王族、俳優のロバート・デ・ニーロ、ジョージ・クルーニー、ユマ・サーマン、スーパーモデルのクリスティー・ターリントン、F1ドライバーのジャン・アレジ、F1組織のオーナーであるバーニー・エクレストン、フェンダーの副社長などモノの善し悪しがわかる目利きばかりだ。ミラノ・コレクションでも菅野のデザインしたバッグがいくつも使われている。さりとて、そういうことを自らPRすることはしない。自分の宣伝をするのは野暮だと思っているからだ(この情報も他のソースから仕入れた)。 
 そこまで多くのVIPを魅了したエアロコンセプトを大企業が放っておくはずもなく、菅野のもとにはいくつもの話が持ちかけられる。ルイ・ヴィトンやトヨタもその一例だ。その多くはコラボレーションだが、菅野は惜しげもなく断ってしまう。コラボレーションによって、自分たちの良さが削がれてしまうと思っているからだ。事実、せっかくいいモノを作っていたにもかかわらず、大企業の論理で食い散らかされ、あげく使い捨てにされた例はいくつもある。 国内の有名デパートでもエアロコンセプトの売り場があったが、今は撤退している。
「彼らは流行り物として扱い、上から目線でこういうモノを作ってほしいと言ってくる。そうじゃないだろ、作り手の心をお客さんに伝えるのがあなたたちバイヤーの役割だろ、と言っても通じないですね。結局、いかに効率よく、たくさん売るかという発想だけ」 
 同じ日本語で話していても、菅野とそういう人たちとは永遠にわかり合うことはないだろう。
「結局、私は目に見えないものを作りたいと思っている。洒落れ、やさしさ、潔さ、思いやり、心地よさ…。大切なものは目に見えない。だから、どんなに頑張っても仕上がったモノは自分の思いには至らない。それでも自分の思いをモノに込めたい」 
 痛快この上ない町工場の職人である。(取材・文/高久 多美男)
※記事写真の作品は販売しておりません。ご了承ください

1951年、東京都麻布生まれ。1991年、祖父の代から続く菅野製作所の3代目社長に就任。
その2年後に倒産。その後、再起を果たし、新たにエアロコンセプトという独自のブランドを開始。
現在、世界のVIPを虜にするほどのブランドとして各界から注目を浴びている。

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